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アプリ開発(Coard)の経過報告、幼少期の心の歪みについて




当記事は iPad のワードプレスアプリから更新しているので、パラグラフ間のスペースが空きすぎているかもしれません。モバイルルーターを変えたことと当ブログの FTP の設定がうまく噛み合わず、ブラウザからワードプレスの管理画面にアクセスできなくなってしまいました。
サイトメンテナンスも行き届いてないので、記事内広告もムダに多いですがどうかご勘弁を。




さて前回、2020年11月末に「Coardはまだリリースできません」という記事を書きました。
それからもうすぐ一年経つのでそろそろ経過報告をしようと思いますが、残念ながら Coard はまだしばらくリリースできません。




前回の記事にて
「本尊であるエディタのほとんどの機能は実装しておらず、複数の下書きを作成できないどころか、ファイルシステムすら存在しないのでテキストの保存ができません。外部への共有もできず、キーボードショートカットもありません。Coardキーボードのほうも、定型文のカスタム登録ができないし、カスタムキーボードとして他社アプリで使うこともできません。」
と述べましたが、現在もこの状況はほとんど変わっていません。これについて少し詳しく説明します。








急ぐのをやめた




昨年の9月初頭に自称「飾りアプリ」が審査を通過し、一応いつでもリリースできる状態だったんですが、その後、細かな修正箇所が(外見上のことも細部の挙動のことも)無数に見つかり、このとき「あぁ、急ぐの無意味だわ」と悟り、急ぐことに関してスイッチが完全にオフになりました。いちいち焦るのもやめました。




こういうモノづくりって、本気でこだわり始めるときりが無いというか、すべきことがドッと溢れ出てくるものなんです。それをやりきろうとすると、時間と手間がどうしてもかかります。
もちろん、何もこだわらなければ出せます。でもそんなしょーもない製品を世に送り出したってゴミが増えるだけですし、時間もムダになります。過去を知らない新規購入者を惑わせることにもなってしまいます。




完全な"質"重視にした




急ぐ(スピード)という意味での"量"志向は完全に捨て去り、代わりに「最高度・最高品質」を徹底的に追い求めていくことにしました。ソフトウェア界でもっとも美しく、もっとも知的で、もっとも頑強な製品。それを実現するためなら、どんなに時間がかかってもいいと自分に許すことにしました。




どこまでも「基礎」が必要だった




長期展望をもって最高度・最高品質を追求していくと、その壮大なヴィジョンとは裏腹に「基礎・基盤」をどこまでも極めていかないといけないことに気が付きました。建築物は基礎をしっかりしないまま上へ上へと築き上げていくとグラグラし始め、やがて崩壊してしまいます。




アプリという単位で見ると、基礎・基盤は「プログラミング」にあたると思います。さらにプログラミングという単位にズームしてみると、基礎・基盤は、各コード各メソッドの丁寧な記述や命名といった文学的な側面から、「小さく分割して繋げる」というモジュール原則などの建築的な側面まで、いろいろあることがわかってきます。




特に Coard では今後、膨大な機能や有機的なUIを搭載していこうと目論んでいるので、それも考慮すると、なおさら基盤はしっかり頑強に作り込んでおかなければなりません。




この基礎・基盤の完成度を追求していくと、やがて「細部」の作り込みは避けられないことに気づきます。物理学者たちがだだっ広い宇宙空間の成り立ちを追求していった結果、今度は量子というミクロの世界を探求する必要があることに気づいたことと似ています。
イーロン・マスクも「細部に全体は宿る 。全てのわずかなニュアンスまで考え抜いて機能と美学を両立させようとしてきた」と言っています。




UNIX界のプロに教えを請う




と言っても、誰かに直接会いに行ったのではありません。
配色やUIデザインといった華やかな部分ばかりこだわるだけではダメで、プログラミング技術という裏方の世界を追求する必要性に直面しました。そのとき手にした書物が『The Art of UNIX Programming』です。




UNIX は 1969 年生まれの OS で、進化の著しい IT 業界でいえばジュラ紀。PCやワークステーション、マイクロプロセッサやビデオディスプレイ端末もまだ存在しない時代で、最初の半導体メモリがかろうじて同世代です。そんな時代から現代までいくつもの技術革新を生き抜いてきた UNIX は、生命力がきわめて強く、思想哲学の優れた由緒ある伝統をもっていて、macOS をはじめとした Apple 系 OS の基盤として現在も活躍しています。




著者の Eric.S.Raymond はアメリカのソフトウェアデベロッパーで、UNIX とインターネットが統合し始めていた 1980 年代の UNIX 系プログラマー、1990 年代の「Linuxキッズ」よりも前の世代です。『Revolution OS』というドキュメンタリー映画の冒頭で喋っている人物はまさに彼です。




その著書は計 20 章に及ぶ膨大な文量で、言語化されずに受け継がれてきた UNIX 伝統の技(わざ)が盛り込まれています。今年の前半はこの本の精読と Evernote へのメモに打ち込んでいました。
彼が「私たちのソフトウェアと伝統は、本格的なコンピューティングを支配している。24時間365日の信頼性とダウン時間を最小限に抑えることがどうしても必要なアプリケーションは、私たちのものだった。実際、私たちは安定したインフラストラクチャを作ることにかけては、おそろしく有能だ」と述べている通り、プログラミングに対する知見や思慮の深さは驚くべきものでした。




これをある程度読み進めたとき、数年前 Swift3 に更新してプロジェクトが破綻したのも無理はないことだったと、ようやく十分に思えるくらいになりました。お粗末なプログラムを書いていたことを痛感したからです。




UNIX 系プログラマーというのは言わば「根っからの技術屋」で、彼は Mac 文化についてこう述べています。




「Macintosh プログラマにとって、すべてはユーザーの使い心地だ。彼らは建築家であるとともに装飾家だ。彼らは外から内に向かって設計し、「どのようなやり取りをサポートしようか」ということをまず考えてから、ユーザーインターフェイス設計の要求に応えられるように、その背後のアプリケーションロジックを組み立てていく。この方法で作られるプログラムは、見かけこそよいが、インフラストラクチャが脆弱でふらふらだ。特に悪名が高い例を挙げれば、Mac OS のメモリマネージャは、Release 9 という段階になっても、ユーザーの助けによるメモリ開放を必要とした。終了していながらメモリに残っているプログラムを手動で弾き出さなければならなかったのである。Unix 文化の人々は、この種の設計ミスを本能的に嫌う。彼らには、Macintosh 文化の人々がこのような環境で折り合いを付けていることが理解できない。」




執筆に5年かかったと言われるこの著書が世に出たのは 2003 年、UNIX と統合した「OS X」はすでに存在していましたがまだ未熟な段階で、彼が触れている Macintosh 文化は Mac OS 9 系統を指しています。
が、僕はまさに Macintosh 文化の体質に見事に陥っていました。Coard は「見かけこそよいが、インフラストラクチャが脆弱でふらふら」なソフトウェアでした(見た目ももっと磨く必要がありましたが)。




とにかく時間がかかる




現在取りかかっている Coard プロジェクトには、2017年初頭にエディタ搭載版をリリースする前、2015~16年の間のゴミコードがまだまだ大量に残っており、今後も長期に渡って地道にそのゴミを取り除いていく必要があります。




今は機能らしい機能以前の段階、アプリとしての基盤部分の改築に勤しんでいるところですが、今後取りかかっていく巨大な「エディタ機能」の背後にも、膨大なゴミコードが待ち構えています。ざっと想像しただけでも長期に及びそうです。
そんなわけで今年中にリリースするのはまずムリで、2022 年中にリリースできるかも怪しいです。




しかし実はこれでも、開発ペースは年々速くなっているくらいなんです。これには僕の精神状態の立て直し、幼少期に歪んだ心の補正を着実に進めてきたことが大きく影響しています。これについては前回の記事では触れませんでした。




ずいぶん昔から心の歪みを抱えていた




話が脱線しますがついでなので説明しておきます。
僕は高校2年の頃から神経症を患っており、眞子さまが患ったことで話題となった「複雑性PTSD」と同じような症状に、もう 12 年以上苦しんできました。




発症したのは高校時代だとしても、その原因は幼少期の家庭環境にあります。「三つ子の魂百まで」という諺が示しているように、ヒトは人生の最初の4、5年間に経験したことの印象を潜在意識のコアに格納し、それを土台としてその後一生、外の世界や自分という存在を解釈するようになります。スピリチュアル界では「インナーチャイルド」と呼ばれ、その心のコアが形成される幼少期に世界観が歪んでしまうと、普通は二度と治せません。




特に僕の場合は、いとこ含めて歳の離れた末っ子として生まれたことがまず大きな要因で、祖父母とも同居しており、周囲の人たちの「注目と世話」の集中砲火を浴び続け、大いに甘やかされながら育ちました。
おまけに年下の世話をする経験をもてず、親の関心を独り占めできます。




それに加え、父と母も精神的に健全ではなかったことも大きな要因です。
父は神経症的な傾向があって人としての温かみや自然体が欠けているし、母は過保護・過干渉・心配性・支配的な態度を行使する人でした。特に母親は厄介で、息子の自立を望むどころか自分のそばに置いておきたいという強い欲望をもち、息子にやらせるべきことを全て母がやってしまっていたし、息子の恋人には嫉妬をむき出しにして対立的な態度を示しました。
26歳の頃、個人事業を始めて時間が自由になったのをいいことに、母は毎月のようにお出かけのアポをとってきました。貯金はほぼなく経済的にも精神的にも追い詰められている中仕事を軌道に乗せるのに毎日必死なのに、ブラスト演奏会のチケット2人分をなんの相談もなく勝手に購入して誘ってきたときは憤りを感じました。
母がようやく精神的に子離れをしたと感じたのは、僕が28歳の頃でした。




兄や姉も弟に対して強めの言い方をするほうで、特に兄は母親の支配的な性格を受け継いでいました。
こういう幼少期を過ごすと世界観は極端に歪み、他者を思いやる精神を獲得し損ねます。




ネタかと思うほど条件が揃いすぎていました。
このような子どもが成長していくと、中学高校大学と関わる人が増え人間関係が複雑になるにつれ、その歪んだ心は徐々に耐えられなくなり、やがて心がポキッと折れ、他者と関わる勇気を完全に喪失、慢性的な恐怖心に染まります。
これが神経症の始まりです。僕の人生は 20 代で行き詰まることが最初から確定していました。




神経症を患うとこの世界で1秒たりともリラックスすることができなくなり、心臓は常にバクバク、ありえないような極度の恐怖心と自己や他者の存在否定、テレビの砂嵐のような煩悩にさいなまれ続けます。意地の悪い怒りや不眠、罪悪感や羞恥心、虚しさや絶望感、憎悪や鬱憤、トラウマやフラッシュバックが雪崩れのように押し寄せてきて、ストレスと疲弊の日々を送ることになります。




精神障害になると自己という存在を肯定できなくなります。自己愛が枯渇すると人格の断片化が起き、自分がどういう人間かわからなくなり混乱し、自分らしさを喪失します。吃音や心因性の難聴をはじめ、身体も正常な機能を維持できなくなります。
いわば「真っ暗な地下牢に自分を閉じ込める」ような精神状態になり、心の真理を見極め、自力で補正しきるまで苦痛を味わい続けることとなります。
双極性障害や統合失調症も似たようなもので、この種の人たちは人間がおよそ経験できるであろう「あらゆる負の感情」を味わい尽くします。




社会活動に専念する準備ができておらず人間的に落ちぶれていき、どんなに知性や感性を高める努力をしても、潜在意識を支配する世界観を確実に補正しない限り、人生は着実に縮小していきます。




僕の場合、25 歳頃には殺気に染まっていて、包丁をもって外へ出たら誰か殺してしまいそうなほど生命に対する感覚が麻痺しており、非常に危険な状態でした。自分でも包丁をもつのが怖くなるくらいで、殺気に染まっていたときの目を鏡で見たときは、鳥肌が立ちました。殺気の目は見るものではないです。
だから通り魔のような無差別殺人者の気持ちが少しわかります。彼らは特定の誰かに恨みがあるのではなく、人間のことを仲間と認識できる「共同体感覚」を幼い頃に獲得してこなかったのです。




こんなんで人並みの生産性を発揮できるわけがないですが、心のメカニズムを解明して着実に治してきました。
24歳までに2人の精神科医と1人の対人恐怖専門カウンセラーにお世話になりましたが、いずれも治療の力にはなりませんでした。どんなにもがいても底なし沼から出られないような感覚、人類の心に対する無知さを背負って生きているような感覚で、じつに苛立たしい人生でした。
今や精神科医や心理カウンセラーよりも心のメカニズムを体得しているくらいで、少なくとも精神医学や脳科学の知恵では、僕が患っていた神経症を完治させることは到底できません。




ところが心理学者アルフレッド・アドラー は、第2次世界大戦前後の時代に、すでにこの辺りの因果関係を見出していました。




『子ども時代の歪みと大人になってからの失敗の間には、直接の結びつきがある。共同体感覚を獲得しなかった子どもは、後に神経症者、アルコール依存者、犯罪者、あるいは自殺者になる』




『甘やかされた子どもは、何か問題に直面する時はいつもそれが他者の努力によって(自分のために)解かれることを要求する。そして人類の協力を妨げ、人類の問題を解決することに積極的に関わる人に不当な重荷を投げかけるのは、主として、甘やかされた子どもである』




『第二子が他の兄弟と対等であるという希望をなくせば、実際よりも目立とうとします。すなわち、兄(姉)が強すぎれば、弟(妹)は人生のマイナス面に逃避する傾向があります。そして怠惰、虚言、盗み、神経症、犯罪、自殺への道を開くことになるでしょう』




『大人になっていくと共同体感覚が欠けていることはいよいよ明らかになる。人生の意味を最初に誤解した時、責任と自立に向けて自分を訓練することをやめてしまったのである。今ではどんな人生の試練にも困難にも準備ができていない』




『このような甘やかされた子どもたちが大人になると、おそらくわれわれの共同体において、もっとも危険な種類の人になるだろう』




『共同体感覚は生まれつきのものではなく、意識的に発達させなければならない「可能性」です。どんなものであれ、いわゆる社会的な「本能」を当てにすることはできません。なぜならそれは周囲の環境に対する子供の「解釈」に依存しているからです。
この子供の「解釈」が発達するとき、最も重大な要素は、母親です。全ての子供が初めて接触する信頼に値する「仲間」だからです』




『母親は「子どもは自分の一部である」という感情を誇張し、子どもを自分の自己満足な目的に利用しようとすることがある。母親は子どもを自分に全面的に依存させ、子どもの人生をコントロールしようと試みるかもしれない。子どもをいつも母親に結びつかせておくためにである』




『子どもたちにとって最初の「仲間」は母親であるが、母親は自分とだけ関係を結ぶことに満足してはいけないのであって、この子どもとの関係をさらにまわりのすべての人へと広げなければならない。
母親がそれに失敗した場合、治療者が母親にかわって神経症者などの患者に「仲間」として接触しなければならないこともある』




フロイトもこう言っています。
『過保護、溺愛を受けて育った子供は、成長後もわずかな愛情では満足できなくなり、他人に対して過剰な愛情を求める、神経症的性格を形成する。
また、神経症的な両親による神経質な育児や、統制を欠いた溺愛によって、子供は「神経症的性質」を引き継いでしまう』




治療は現実的ではないので予防が不可欠です。神経症を自力で治したケースというのは皆無か、ほとんど事例がないようで、アドラー は次のように述べています。




『おそらく稀なケースでは、誤ったアプローチの結果が人が人生に与えた意味を見直すことを強いる。その時は、自分自身でアプローチを調整することに成功するかもしれない。しかし、なんらかの社会的な圧力か、あるいは、古いアプローチを続けることは自己破壊になるということを認識することなしには、このステップをとることは決してないだろう』




今後のサイト運営について




さて、すでに購入してくださった方々には本当に申し訳ないですし、待ちくたびれて半分諦めているかもしれませんね。Coard は市場の平均よりも高価格帯の有料アプリですが、いまは"商売人"をやってる余裕がまったくない段階にいます。
UI デザイナーや Web デザイナーをやってる余裕すらなく、しばらくは「引きこもりエンジニア」に徹していくことになります。




と言ってもこの文章を書いている最中、新しいサイトを公開しました。




URL は coard.design です。
独自ドメインは 2020年6月に買っていたものの、アプリをリリースできる目処が立たないのでサイトを作成できずにいました。この記事作成を機に coard.design にアクセスしてみたら、「parked free」とか表示されてる。横取りされそうな危機感をいだき、つい先日ささっと作って公開したのです。




Coardアプリについては今後、そちらで更新していくことになると思いますが、新バージョンをリリースするまでは旧更新ページも必要であれば更新していく予定です。アプリ内ブラウザからアクセスできるからです。
アプリのリリースが近づいたら、当ブログの Coard 紹介ページは coard.design にリダイレクトする予定です。




また、当ブログはここ数年、年に1〜2回の更新頻度でしたが、今後も更新していく気はありません。
当ブログはガジェットレビューから始まり、最後のほうはテクノロジー分野の分析・批評を行うようになっていました。しかし、誰もが(特にその領域における素人や反知的な人たちも)見られるブログ上で批評記事を書くのはほとんど不毛であることに気づきました。




下手に炎上したりすると、モノづくりへの集中が阻害されてしまいます。専門的な分析や批評をするなら、オンライン空間の中でもっとも知的レベルの高い Quora でするほうが良いことに気づきました。




もっとも、自分は口を閉じて黙々とモノづくりに専念すべき人間でした。今では Facebook も Twitter も Instagram も LINE もやっておらず、他の誰よりも「口を閉じている」度合いが強いと自負しています。
ガジェットレビューをしたい欲もすっかり無くなりました。当ブログの更新通知用 Twitter アカウント @coardware も、この記事の通知を最後に削除する予定です。
本当はブログそのものを削除したいくらいですが、数年経ってもコメントが絶えない記事を抱えているので、そのために残すことにします。




というわけで、アプリのリリースはしばらく期待しないでいただければと思います。 たぶんいつかリリースされると思います。
すでに今後 20 年活動していく壮大な長期構想を練っており、Coard プロジェクトはその序章にあたります。




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